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こけし館の伝統と歴史

~伝統を引き継ぐ津軽の工人~【現役工人】

 阿保金光 阿保六知秀  今晃 笹森淳一 島津誠一 長谷川健三 本間直子  盛美津雄 
 

~語り継がれる津軽の名工~【故人工人】

 佐藤伊太郎 村井福太郎 島津彦作 斉藤幸兵衛 毛利茂太郎 佐々木金次郎 間宮明太郎  
 島津彦三郎 山谷権三郎 長谷川辰雄 三上文蔵 川越謙作 山谷キヨ 毛利専蔵  間宮正男
 村元文雄   奥瀬鉄則  佐藤佳樹  小島俊幸
 

盛 秀太郎

◆生涯一職人として

盛秀太郎は明治28年、青森県温湯温泉の代々木地師の家に生まれ、16歳より父元吉のもとで、椀や杓子などの生活に必要なさまざまな木地を挽き始めた。 こけしを作り始めたのは、大正3年頃。
すでに宮城県の鳴子や遠刈田ではこけしが作られ、素朴であじわいのある郷土玩具として全国に知られていた。

津軽にも、こけしの原型といえるような、子供のおしゃぶり(なめり棒)や民間信仰の対象(山中三助人形)は存在していたが、ここではまだ、「こけし」として世の中に認められるものにはなっていなかった。

そこに独自の創造性を加味して、津軽系こけしの礎を築いたのが盛秀太郎であった。
他県のこけしが、徒弟制度のなかで厳しく伝統を守って作られていたのに対し、盛秀太郎らに始まる津軽系こけしは、縛られるべき伝統を持たない自由な創作工夫と新しい感覚で、やがて全国の注目を集めることとなった。

しかし、盛秀太郎は木地師、職人である。 脚光を浴び、全国から注文が殺到し、世界的版画家棟方志功が激賞しようとも、納得のいかないものは完成寸前であっても、火に投じた。一徹な職人気質の工人は、それゆえに寡作であり、その作品は必然的に珍重された。

昭和30年代のこけしブームの祈りには、全国から現金同封による注文が殺到した。ほとんどが「できるまで1年でも待つ」というものだった。断るのに大変だった。

「有名になることは、おそろしいことだと思いました。金が入るのはありがたいけど、それこそ金縛りになって身動きができない。病気にもなれないです。金がないのもつらいけど、勝手に金が舞い込んでくるのもこわいもんです」

晩年、作品に驚くほどの値がつくようになっても、その一徹ぶりは変わらず、生活は最後まで質素そのものであった。

◆伝統の継承

秀太郎はまた、弟子に厳しい職人であった。
住み込み、無給の昔ながらの徒弟制度がここにもあった。後に温湯系こけしの若い牽引力となる奥瀬鉄則や佐藤善二(共に故人)は、多くを語らない師匠の仕事ぶりを盗んで修行し、優れたこけしを世にだした。やや遅れて、孫の美津雄も加わり、盛秀こけしの伝統は確かに受け継がれた。

津軽の静かな温泉町の小さな作業場で、生涯を職人として生きた盛秀太郎の仕事には、崇高な精神の昇華を見ることができる。

昭和61年、盛秀太郎は、温湯の木地師を貫いた91年の生涯を閉じた。

 

佐藤 善二
盛秀太郎の弟子。
津軽こけしの普及や若手工人の育成に力を注いだ工人です。
墨で描彩したこけし、こけしの裏に足を描いたこけしなどが
有名です。

大正14年、西津軽郡森田村生まれ。若い頃の夢破れて横浜市に出たのは、28歳の時だった。職を点々としながら、木地の勉強を始める。小田原の神奈川県立土木工芸指導所に通って、こけし技法を学んだ。小田原は湘南の観光地の拠点で、箱根や熱海の温泉街も近くにあった、観光みやげ品として彼が作っていたこけしは、伝統こけしとは違うものだったが、効率よくろくろを挽き、良質な製品を数多く作る「職人的」技術を磨いた。

30歳の時、温湯の発電所に勤務していた父親を頼って黒石に。
その父の紹介で盛秀太郎の弟子となる。「愛されるこけしを1人でも多くの人に」というこけし作りの基本は変わらず、自身のこけしを風呂敷に包んで背負い、自ら青森駅前や浅虫温泉のみやげ品店をまわって販路拡大に努めた。

津軽こけしの普及のため、積極的に全国各地を歩いて実演をした。また、多くの弟子を育てたのもそのためだった。底辺を広げることが、名工を生む素地を作ると考えたからだ。
厳しい反面、手も足もないのは不憫と、こけしの底に足を描く心優しい職人でもあった。

昭和60年、弟子の独立を見届けて逝く



※津軽こけし工人系図
津軽こけし工人系図

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