「こけし」は江戸時代後期から作られたと言われる伝統こけしの他に、それを元により自由な形態や描彩を求めて作られた全国の観光地や土産店などで見られる新型こけし、創作こけし等に分類され区別されております。
伝統こけしの産地は山間部・温泉地に多く、山で木材を挽き椀や盆を制作していた“木地師(きじし)”と呼ばれる人たちが、湯治場で販売する子供向けのお土産品として顔や模様を描いた木人形を作り始めたことが、こけし誕生のきっかけと言われています。
伝統こけしは12系統に分類されその全ての産地は東北にあり、それぞれ産地に見合った模様や技法で根付いて育ち、師匠から弟子に型を継承されていることで作り続けられ、その作り手は“伝統こけし工人(こうじん)”と呼ばれます。
青森県黒石市は12系統の中の1つ、津軽系こけしの産地です。
12系統の伝統こけし
津軽系Tsugaru
主な産地:青森県/温湯温泉、大鰐温泉
1本の木から作られる“作りつけ”という技法で作られるものが多く、髪型はオカッパ頭、形はくびれた胴、裾広がりの足元、模様はねぶた絵から影響を受けたと言われており、牡丹の花やダルマ絵などが多く、大鰐ではアヤメ模様なども。12系統の中でも比較的歴史が浅い分、多用な型、描彩、技術を元に出来上がった系統とされており、その分表現様式が多彩で様々な型や模様のものがある。
津軽のこけし工人はこちら
津軽系こけし工人系図
語り継がれる津軽の名工
盛 秀太郎(1895〜1986年)
「ワァ死んだら、なんもいらねぇ。
ただこけしッコ並べてければ」
温湯温泉の木地師の家系に生まれ、大正時代よりこけしを作り始めた津軽系こけしの始祖。
裾が広く、くびれた胴に独特のアイヌ模様と呼ばれるカラクサ模様、ねぶたから取り入れたとされるダルマ絵や、津軽藩の家紋にも使われている牡丹の花模様などの作品が特徴で現代でも多くの津軽系工人達に受け継がれている。
長谷川 辰雄 (1905年~1985年)
「理屈はわがらねェ。ただ、美しいと思った絵を描いているだけなんだ」
黒石市板留の木地師の家に生まれ、生まれてまもなく、大鰐町の長谷川家の養子となる。
その後、大鰐の嶋津彦作が経営する木工会社の職人として働き日常雑器を作る傍らこけしも製作する。絵の才能に恵まれ、描彩を得意とし、盛秀太郎とともに津軽 大鰐系のこけしの代表的工人として知られる。
佐藤 善二(1925〜1985年)
「名人、名工を夢見るな。いい職人になれ。人々に愛されるこけしを沢山作るのが、いい職人だ。」
西津軽郡森田村生まれ。木製土産品の生産が盛んな神奈川県小田原で轆轤技術を学び、その後、盛秀太郎に弟子入り。独立後は津軽こけしの普及のため積極的に全国各地を渡り歩きこけし製作実演を行う傍ら数多くの弟子を育成。厳しい反面、手も足もないのは不憫と、こけしの底に足を描く心優しい職人でもあった。